なんで思い出したか
そういや
子どものころね
夢を聞かれるのがいやだった。
正確に言うと
子どもだからって
会話のすきまを
埋めるついでに聞いてくる大人。
そのデリカシーのなさ
浅はかさが嫌だった。
大人は無責任に聞いてくる。
そして
勝手な期待をして待っている。
聞かせてくれと。
子どもらしいやつ
スケールの大きなやつ。
ぼくは
「王選手みたいな野球選手になりたい」
と答えるのをテンプレにしていた。
たまに、長嶋にしてみることもある。
野球なんかぜんぜん
興味もなかったけど
そう答えると
決まって
大人は満たされた顔で
よしよしとうなずいた。
その様子を見て
子どものぼくはこう思っていた。
人の夢を聞いたくせに
その程度の反応なのかと。
そうか
それなら俺の知り合いに
野球選手がいるから
コーチを頼んでやるとか
そこまでとは言わなくとも
具体的なバックアップの意思や
人生の先輩としてのアドバイスくらい
あってもいいんじゃないだろうか。
試しに
「サラリーマンになりたい」と答えると
簡単なクイズの答えを
間違えたかのように
大袈裟なジェスチャーで
困惑した反応をされた。
そして
「もっと大きな夢を持ちなさい」と言う。
これには心底がっかりした。
人の夢に大小つけちゃいけない。
そんな権利は誰にもないはずだ。
大きな夢に対しては
なんのフォローもできないのに
現実的な職業を聞くとそれを否定する。
じゃあ聞こうか。
目の前の大人よ、
あなたは自分の夢を叶えたのかい?
そう心の中で思っていた。
人の夢を不用意に聞いてはいけない。
自分ができなかったのなら
なおさらのことだ。
もっと言えば
夢がなくてもかまわない。
ただ、そのときその人は
夢を描けない状況だけなのかもしれないし
それがわるいことでもなんでもない。
夢を持たなきゃ
なるべくでっかいやつみたいな圧力は
ある種の呪いだと思う。
ごく一部の想像力の欠けた大人が
自由な発想を摘んでしまう。
そういう時代は
もう終わると思っているよ。
そして
そんな野暮なことと競わない
しなやかな心が育っていると
希望を持っています。
さてさて。
そろそろ次は何になろうかな。
週末もごきげんでありましょう。
FROM FRONT フロントより